今、こうして生きている奇跡はただの確率かそれとも因果か?
昨日id:santaro_yさんとスカイプでおもしろい話をした。
それは確率と因果のはなし。
たとえば宝くじに当たる人がいる。人はあたりがでやすい売り場だとか、買った宝くじ券を神棚に置くとか、そういう原因になる行いによって結果として当たると考える因果律がある。
それとは別に宝くじのあたりが少ないとはいえ、必ず誰かには当たるのだから因果とはまったく関係なしに、当たるものがいるのだと考える確率的事象がある。
そして人間の意識というものは、どちらかというと因果律を重んじる。神はサイコロをふるとは考えたくないからだ。果たして神さまはサイコロをふるのか?
とつぜんだが僕は仏教を信じている(キリスト教も信じているので、ブッディストであり自称クリスチャンでもあるが)。だから僕は因果というものを信じている。
奇跡のような確率といえば、いま、こうして僕やあなたが生きていることも奇跡的な確率の上で成り立っている。だって、僕らは今こうして生きているということは、一人の先祖も欠けることなく、生命40億年の命のリレーをしてきたのだから。それは確率的に考えたらものすごくありえないことだ。
しかし同時に無数に生きられなかった命があるから、誰かは宝くじにあたる人がいるのと同じように、いま生きているものがいるのも当たり前ともいえる。確率的に誰かが死に絶え、誰かはかならず生き残り続けるのだ。
だからといって、僕はそれを単なるラッキーだと済ませたくはない。神様はサイコロをふらないと僕は思う。確率的事象はあるけれど、因果律のほうが強い。そうじゃなかったら宝くじで何度も当たる人がいるのは変だし、無数に散っていた命に失礼だと思うから。
ということを書いていて、いま思った。僕らは幸せであるために今を生きている。