映画「オン・ザ・ロード」そしてディーン・モリアーティだけが残った
映画「オン・ザ・ロード」を観てきた。この映画の原作は「路上」。
『路上』(ろじょう、原題:On the Road)とはジャック・ケルアックの小説。作者が自らの放浪体験を元に書き上げた自伝的内容の小説である。
主人公のサル・パラダイス(実在ジャック・ケルアック)と破天荒なディーン・モリアーティ(実在ニール・キャサディ)を中心としたロードムービー。
物語の始まりはサルの父親が亡くなったあと、しばらくして立ち直りかけていたころにディーンと出会うことから始まる。
若き作家のサルは狂った人が好きだ。ありふれたことを言わない。理解できる行動をとらない。そんな人がサルは好きだ。ディーンはまさにサルにとって、そんな人物だった。人の車は平気で盗むし、恋人とふたり裸で友達を出迎える。
初対面からそんな破天荒な奴だからサルはディーンのことを会ったそばから大好きになる。けれどディーンと関わりたいと思ったのは、そういう作家としての興味ではなくて、小さいころに亡くなった兄のことを重ねたからだった。
ディーンとサルとその仲間たちは広大なアメリカを旅するわけだけど、一体人はなぜ旅をするのだろう?一体何を求めて旅をするのか?
ディーンは幼いときにいなくなった父を探していた。
サルは亡くなった兄を重ねていたディーンと旅すること自体が目的だったのかもしれない。
ディーンの旅路を振り返ってみると、恋人メリールウやサルや仲間たちとの自由な旅。それからカミールと出会い子供も生まれて家族をつくる旅の中断。しかしカミールは退屈と不自由を感じているディーンに対して、家を追い出す。ディーンはそこから父を探しにいく旅にでる。
主人公のサルの旅路はディーンに寄り添うことだから、結局はみんな父を探す旅なのかもしれない。
ところで、「オン・ザ・ロード」はアメリカの話である。アメリカといえば、キリスト教の影響が強い。キリスト教では神様のことを「天にまします我らの父よ」と祈り呼びかけるように、父=神様ともいえる。
ディーンは自分の生き別れた父親を探してはいたけれども、同時に神様を求めて旅をしていたのではないだろうか?そしてサルもそれは同じだったのかもしれない。なぜならディーンの中に「聖性」をみていたのだから。
ディーンの聖なる部分は、一般倫理を超えている。車は平気で盗むし、恋人メリールウを友人であるサルと一緒に抱きたい望みなど。しかしここで一度、一般社会の常識を疑ってみよう。
たとえば、車ひとつとっても、一体それは本当は誰のものなのか?所有し独り占めするのは良いことなのか?という観点からみれば、所有することが本当に良いことなのか解らなくなる。それを恋人にまで広げ、やすやすと飛び越えるディーンはやはり聖性を帯びてくる。
そんなディーンは結局、普通の望みをもつ、みんなの期待を裏切った。
メリールウは実は普通の家庭を欲していたし、カミールだってそうだった。サルもこんな堕落した旅はいつまでも続けられずに、普通の世界へ戻っていった。
そしてディーン・モリアーティだけが残った。純粋なままに。父を求めて。