トリートReトリート

世界全体とわたくしが同時に幸福でありますように。ひきこもり修養所。

Newひきこもり村。の「抜苦与楽」

以前、id:santaro_yさんと話していて、気づいたことがある。何のためにNewひきこもり村。をつくろうとするのか。僕はNewひきこもり村。に何を求めているのか?

 

話していて僕の中から出てきたのは「抜苦与楽」という言葉だった。苦しみを抜き、楽しみを与える。そういう場にすることを僕は求めていたことに気づいた。

 

「抜苦与楽」の考えは仏教からきているので、Newひきこもり村。のベースには仏教があると言ってもいいと思う。実は以前の「ひきこもり村。」はキリスト教の祈りによって出来たと僕は思っているのだけれども、今度はそれに仏教の祈りも加わることになる。

 

「抜苦与楽」の言葉をキーワードにしてNewひきこもり村。をつくっていく。

具体案としては「抜苦」と「与楽」を分けてボタン化しても面白いかもしれない。

掲示板の書き込みの評価として「抜苦」「与楽」をつける。

自分の書き込んだ内容が誰かの苦しみを和らげたことを知れば嬉しいし、自分の書き込みが誰かを楽しませたと知るのも嬉しい。本来は数値化できないものだけど、あえて可視化することで面白い場になるかもしれない。

Newひきこもり村。をつくろう!

はじめて、ニコニコ動画Youtubeに「Newひきこもり村。をつくろう!」という動画をアップしました!

動画編集ソフトさえ使っていない、文字を読むだけの拙い動画ですが、どうかみてやってください。

(それにしてもアップした後に気づいたけど、文字が小さい!)

 

今のままで良いと思いながら「やる気」はでるか

最近、いまいちやる気がでない。そんな自分をダメだと思う。かといってこのやる気のない自分を否定したとしても、やる気がでるわけでもない。ただただ苦しいばかりである。理想をいえば今の自分に安住しつつも、情熱をもって作業に取り掛かりたいのだけれども、そんなことは果たして可能なのか、考えてみたい。

 

まず、なぜ「やる気」がでないのか?「やる気と」は何か?を考えたい。

やる気というものは何かをやることで得られる「報酬を目的にしたやる気」と、ただやる事自体が「楽しくてやるやる気」があると思う。

熱中するにはやはり報酬を目的したやる気ではなく、それ自体が「楽しくてやるやる気」を持つことが必要だろう。

 

それだから僕が今、物事に対してやる気を少し失っているのは、作業をやることで何かを得たいと思っているのだろう。何かを得たいと思っているということは、今の自分には何かが足りないと思っていることだから、なかなかそんな自分に安住することができず、何となく毎日追い立てられてるような気がして苦しいのかもしれない。

 

けれども自分を否定して向上していく道というのもやはりある。というか、そういう道しかないように思い込んでいる気がする。前に進むために、今の自分ではダメだと強く思い、そのパワーでもって前に進む。一歩進んでも二歩進んでも絶えず自分を否定し、さらに前に進む。さながら苦行者のごとく。

 

しかしやはり僕は苦しいのは嫌だ。楽して生きたい!「頑張って生きるのが嫌な人のための本」を熱心に読むような人間なのですよ。それに僕は褒められて伸びるタイプなんです!自分を否定されると前に進むパワーなどにはならず、余計やる気がなくなって、涅槃のポーズで永遠ぼーとし始めますよ!?だから僕は今の自分を否定せず、まず自分に安住したい。自分は今のままで良いのだと思いたい。

 

しかしその思いを持つと、前に進むためには今の自分を否定しなければという思いとぶつかってしまうんじゃないかと思う。それでなかなかそう思えない自分になるのだ。

安住とやる気や向上心は両立するのか?それが問題だ。

 

ヒントは遊びにありそうだ。子供のとき僕は夢中でボールを蹴っていた。遊んでるうちに自然とサッカーが上手くなった。上手くなろうという意志さえもなしに。ボールと戯れているうちに自然と上達した。

 

この幼子だったときに戻れれば良い。何かを得ようとするのではなく、ただそれと戯れる。そういうふうに生きていきたい。

 

 

頑張って生きるのが嫌な人のための本~ゆるく自由に生きるレッスン

頑張って生きるのが嫌な人のための本~ゆるく自由に生きるレッスン

 

 

「ハンナ・アーレント」座談会で浮かんできた4つの問い

映画「ハンナ・アーレント」の座談会に参加してきた。

ハンナ・アーレントユダヤ人哲学者で、アイヒマン裁判で衝撃的なレポートを出して、世界を震撼させたという人。

なぜ世界を震撼させたかというと、ユダヤ人大虐殺に深く関わったアイヒマンは怪物などではなく、平凡な役人だと言ったから。

 

アイヒマンが凡人なら誰もがアイヒマンになる可能性があるということになる。

そこで、

 

・アイヒマンにならないためにはどうすればいいか?

 

という問いが生まれる。アイヒマンが生きた社会は戦前の日本のように、全体主義の時代だった。全体主義とは個人より全体を重んじること。全体主義になっていくとアイヒマンになる可能性もでてくるのだ。そこで次の問いが生まれる。

 

全体主義になっていくのはなぜか?

 

全体主義は今の世の中にもある。学校のクラスがまずはじめに全体主義のはじまりとしてある。そこでは個人が自由に発言することを制限される。全体のまとまりのほうが重要なのである。学校の目的はもはや学問をやることではなく、働くことができる人を作ることがメインになってしまっている。企業のニーズに答えるために、だから多くの企業も全体主義である。どの企業も従順な人が欲しいのである。それは効率的だから。仕事を素早く効率的にするには、全体主義が楽だから。

 

それではこの個人を犠牲にして成り立っている全体主義にならないためには、一体どうすればいいのか?映画「ハンナ・アーレント」では友人関係の自由な議論の場を描くことで表現されていた。

言い換えれば公共性が大事だと。公共性とは全体(共同体)と対になる概念で、簡単にいえば、人それぞれが言いたいことを言えるということ。そういう空間があれば、全体主義に陥らずにすむというのだ。

 

しかしこの公共性の空間を作るというのは、なかなか難しそうだ。まず1人1人が自分の頭でしっかりと考え意見を持たなければならないし、それがたとえ間違っていても公に発言する勇気も必要になってくる。当然、自分の考えと違った人が出てくるから、それを寛容に受け止める力も必要となってくる。思考、勇気、寛容。人間として必要な大事な要素を備える人たちが集まって、ようやく公共性のある空間となるわけだ。

 

それにしてもこの公共性のある空間では、それぞれが自分の意見をいうわけだから、ある意味まとまりがない。だからまとまって何か事をするというときは、ずいぶん非効率だろう。アイヒマンを絶対的な悪としてたて、それを共通の敵としてまとまったユダヤ人たちとは対称的に。この

 

・公共性をもった空間で意思決定はどうするのか?

・共通の敵を作る以外でまとまりを作れるのか?

 

公共性を保ちながら、何か決定し実行することもできるようになるには、どうすればいいのか?それはまず、それぞれが十分に語り尽くすことが重要なようだ。まだ言いたいことがあるのに、途中で区切って多数決で決めるようなことはよろしくない。とにかくそれぞれの言い分を言いたいだけ言ってもらったあとに、決める。いろんな意見がでる中で、あらたに課題が生まれてこれば、そこから何か生まれる可能性もある。一見非効率的だけれども、いろんな可能性が生まれる場が公共的空間になる。まとまりは何か敵をしたてなくても「重要だったり面白いテーマ」を立てることことができれば作れるんじゃないかと思った。

Newひきこもり村。を作るということは何を作ることなのか

Newひきこもり村。を作るということは何を作ることなのか?

Newひきこもり村。は果たしてゲームなのか。それともコミュニティなのか。

キャッチコピーに「千年つづくゲーム的コミュニティ」と表現したけれど、よくよく考えてみれば僕はゲームを作りたいのであって、ひきこもる人のコミュニティを作りたいわけではないのかもしれない。

 

僕は今のひきこもり生活に満足している。働けてないとはいえ、リアルで自助会にも参加しているし、たまにあって深い話ができる友達もいる。ネットにもスカイプで楽しく話せる友達がいる。なので言ってしまえば、僕個人はひきこもる人の新しいコミュニティをたいして必要としていない。

 

そもそもNewひきこもり村。という名称からしてコミュニティサイトとして矛盾に満ちている。ひきこもる人の定義が、家族以外の人と半年以上まったく接していない人というものならば、ひきこもり村でちょっとでも交流したとたん、厳密にいえばひきこもる人ではなくなってしまう。ひきこもり村。に参加すればするほど、ひきこもり像とはかけ離れていってしまうのである。

 

以前の僕はそのことを少し気に病んだりもした。僕はひきこもる人たちが主役の場を作りたくてサイトを作ったのに、気づけばそういう風にみえない人たちが大分多くなってしまったと。でも、これは当たり前なのだ。交流サイトなんだから、より多く発言する人が目立つに決まっている。

 

問題は声なき声を拾うシステムがなかったことだ。だから、今度はそれを拾うシステムを作ろうと思う。

 

なんて書くとやはりゲーム要素は二次的なもので、新しいコミュニティを僕は作りたいのだろうか?自分でもよくわからなくなってくるが、しかしすでに書いたように僕自身はコミュニティをたいして必要としていないのだ。だからやはり僕自身はゲームを作りたいのだと思う。もしくは、ゲーム的コミュニティを作るというゲームをしたいのかもしれない。

Newひきこもり村。構想Ver0

Newひきこもり村。をつくろうと思っています。

Newひきこもり村。とは一体なんなのかというと、目的はいたってシンプル。ひきこもる人が穏やかに、時に激しく自分を最大限に表現できるネット上の場所であること。あるがままに自分が、そこに居ていいんだと思える場所。居るだけで幸せを感じるところ。にすることです。

 

そのためにソーシャルゲーム要素と掲示板システムを融合した場所を作ります。

なぜソーシャルゲーム要素を入れるかというと、ひきこもっている人は対人恐怖症や社会不安障害を持っているので、そういう症状がひどい状態のときでも参加しやすいようにしたり、より楽しくするためです。

 

まだ構想段階ですが、具体的には人の書き込みを読んで、救われたり幸せな気分になったらその書き込みにポイントを上げられるシステムとか。

また書き込むのにスタミナが必要で、もっと発言を読みたい人にスタミナを分けてあげることができるとか。そういう直接発言する元気はないけれど、人とゆるやかに関わっていきたいという思いを、ゲーム要素を使って実現します。

 

掲示板としては、2ちゃんねるでも使われているスレッド形式を考えています。ただ、2ちゃんねると最大の違いは、ハンドルネーム主体の掲示板ということです。旧ひきこもり村。では登録ログイン制ではなかったですが、Newひきこもり村。では登録ログイン性にして安心して書き込める環境を作ります(見るだけなら登録は必要のないようにする予定)。

ゲーム要素のメインがこの掲示板です。スレッドを立てられる本数を1人4つほどに制限することによって、それを大事に育て殿堂入り(書き込み1000オーバー)させることを目的にしたら、おもしろくなるかもしれません。

 

それから今、考えているのは、四行日記というサービスです。ひきこもっていると辛いことは、対人恐怖症のほかに、うつ状態があると思っています。

この四行日記は今日「驚いたこと」「嬉しかったこと」「悲しかったこと」「ありがたかったこと」を一日四行書くだけですが、うつ状態から抜け出す効果があるので、プロフィール機能あたりと一緒に実装して広めていきたいと思っています。

 

というわけで今のところの構想は

 

四行日記×ハンドルネーム主体の掲示板システム×ソーシャルゲーム=Newひきこもり村。

 

となります。

ただNewひきこもり村。は僕だけが作るものではありません。核となる部分は僕が深く関わり作りたいと思っていますが、他のいろいろな機能は同志たちで追加調整していける仕組みのほうを僕は作っていきたいと思っています。

 

ちなみに核となる四行日記と掲示板のあとに実現したい機能としては、

 

共同ブログ。

辞書(Wiki)。

村の学校。

村の喜捨場。

 

などがあります。それぞれ簡単に説明すると、

「共同ブログ」は有志で書くブログです。

「辞典」は村の掲示板でやりとりされたこと、起こったことなどのまとめに使います。

 

「村の学校」は、いまリアルのほうでひきこもり当事者同士が講師をやる「ひきこもり大学」という動きがあるようですが、そのネット版です。ライブ配信で放送して、おもしろかったら投げ銭をしてもらい、それを講師料にできたらと思います。

勝山実さんの「安心ひきこもりライフ」とかphaさんの「ニートの生き方」のように、ひきこもってる人やニート状態の人でも、おもしろい人は母数が増えればもっと出てくると思うので、ぜひ実現したい機能です。もし僕が講師をやるとしたら「ひきこもりの悟り方」とか「般若心経入門」とかやってみたい。まぁ話すの苦手だからアレだけど。でも、そんな人でも気軽にできるものを目指したいと思います。

 

「ムラの喜捨場」は、物が必要な人と、物を喜んで捨てたい人をマッチングする場所です。ここまでいくとよりリアルに近いので実現は難しそうですが、Newひきこもり村。の目的は、ひきこもりながらでも幸せに生きる。ことなので、ぜひ実現したい機能の一つです。日本にこの托鉢的仕組みを作れたら、とてもおもしろいことが起こると思うので。

 

というわけで、後半はすっかり夢のような話しになってしまいましたが、この話をおもしろがってくれて、また実現に向けて関わってくれる人がいたら幸いです。

映画「ハンナ・アーレント」自分の頭で考えるということ

映画「ハンナ・アーレント」を観てきた。この映画は、ユダヤ人大虐殺を指揮していたというアドルフ・アイヒマンの裁判記録を書いたことで有名な、ユダヤ人哲学者のお話。ちなみにハンナは哲学者ハイデッガーの愛弟子らしく、恋人関係にもなったことがあることで有名らしい。そのことは少し映画でも描かれていた。

 

それはそうと、ハンナの裁判記録は世界を揺るがすことになる。それは、残虐非道のモンスターと世界中で思われていたアイヒマンのことを、どこにもでいる平凡な人と評し、「悪の凡庸さ」と名づけた。

 

それに留まらず、ハンナはユダヤ人指導者の中でナチスの殺戮に手をかしたものがいたという事実を書いた。これには、ユダヤ人たちがひどく怒り狂った。ユダヤ人たちは純粋な被害者でいたかったのである。そしてアイヒマンは悪のモンスターであって絶対的に間違っていて欲しかった。

 

しかしハンナは哲学者だからそんな思考停止したような二項対立には嵌らない。嵌らないがゆえにハンナはユダヤ人でありながら、ユダヤ人をひどく傷つけてしまった。ハンナは事実を書いたまでだったのだけれども。正しいことや、真実は人を時に深く傷つける。

 

ハンナは最後まで自分の頭で考え続けた。そして得た答えを曲げなかった。たとえ、それで大事な友だちを失ってしまっても。けれども、それでも本当の友達やパートナーは残った。

 

私も自分が正しくて他はまちがってる、なんて単純に思わないように、自分の頭で考えて生きていたい。そう思った。