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トリートReトリート

世界全体と私が同時に幸福であるための、ひきこもり修養所。

ところでツクヨミはどこにいるの?

 昨日は寝れなくて朝まで結局「ひきこもり考」や「明恵」の本を読んでいた。母性と父性両方身につけて名僧となった明恵とか。ひきこもりの健全な家族対応としても、母性の支持だけではなく父性の指示も必要とか、当たり前だけどそうだ。自分のなかの母性的なもの、父性的なものを育む必要がある。でも、どうやって?

 

 結局何事もコツコツやるしかないのだろうけど、何をどうやるのかその方向を示すのが指示か。けど僕等の親の親の世代は戦争に負け、経済で勝つことに邁進した、その子どもつまり僕等の親の世代も踏襲した。しかし経済はバブルと共に行き詰まった。なんで?

 

 お金の一人歩きが進んだからだろうか。お金と技術を手に入れ伸ばしてきた人類は、人のコミュニケーションの必要性を排除し、共同体の弱体化を招いた。

 独立を求めてお金と機械を手に入れて人はひとりになった。あと何が必要だろうか?

 

 苦しいときに助けてくれない。お金をもっていれば別だけれど。病気で苦しんだときにただシンプルに苦しみがなくなるように願ってくれる人がいることは、お金を持っていることそれ以上に価値のあることかもしれない。

 

 ひきこもって苦しんでも現代日本社会では何の価値も見いだせない。収容所で起こるアパシーと日本の70年安保学生紛争と同時にあったというスチューデント・アパシー。そしてひきこもり生活者の無感動、アパシーになっていく感じ。昔は一度共同体から離れて聖なる場に篭ることが通過儀礼としてあったらしい。

 

 しかし家でひきこもっていても何もない。何もないのか?分離。通過。統合。通過する道はないのか。海辺のカフカは入り口はあるけど出口はない。アマテラスは岩戸に篭ったが、アメノウズメの裸体ダンスで人々が笑い転げているのが気になって自ら出てきた。北風と太陽。

 

 今の日本に社会に出ていく価値もまたひきこもる価値と同様にないのなら、自らを通過の途中で閉じ込め続けるしかないんじゃないのか。恥も外聞もすてさり裸体ダンスを踊るアメノウズメを求めている。ところでツクヨミはどこにいるの?

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