トリートReトリート

世界全体と私が同時に幸福であるための、ひきこもり修養所。

「ShareWisとschoo人はなぜ学び成長したがるのか?」

最近二つの学び系のウェブサービスを知った。

「ShareWis」

http://share-wis.com/

 

「schoo(スクー) WEB-campus」

http://schoo.jp/

 

どちらも面白そうなサービスだ。でも考えてみれば、一体何のためにみんな学ぼうとしているのだろうか?もしキリスト者ならこう答えるだろうか、

 

「それはアダムとエヴァが食べてはいけないと神に禁じられた、善悪を知る木になる知恵の実を食べてしまったからではないでしょうか」

 

なるほど。っと納得したらこのエントリが終わってしまう!ので。自分なりに大きく二つに分けて考えてみると、

 

1.学ぶこと自体が楽しいから。

2.仕事につなげたり実用性のため。

 

その両方とがあるだろうけど、しかし結局はそれで人は何を得たいのだろう(快適便利で楽しく幸せな生活?)。

 

学びに追われ仕事に浸かれば、生活は快適便利にはなるかもしれないけど、幸せに生きる時間からは遠ざかる気がする。

 

けれどもそれでも人は成長したがる(もしかしたら人は自分や人の快適便利な生活のためなら死ねる!という男気を持っているのかもしれない。特に日本人は)。

 

あるいはまた動物的な強さを持った人はこう言うかもしれない、

 

「成長したい気持ちは本能からくる。人生はサバイバル&カーニバルだ」(ちょっと言っていることがよくわかりません)。

 

確かに人は放おっておけばお腹が減るし、栄養ある食べ物をたくさん食べ、心と体を成長させ、パートナーを見つけ子を作るように促されている。食欲、性欲、睡眠欲の三大欲求によって。一理ある。

 

それでは時を進め、浦島太郎のように一気におじいちゃん(もしくはおばあちゃん)になったとしよう(僕なんてもう結婚も子どもも諦めているので、気分は既におじいちゃんです)。

 

それでも、まだ何か成長したいと思うのだ。と、同時に成長なんてしたくないとも思う。

 

先日、自助会で知り合った友人たちとスカイプで久しぶりに話していたら電気グルーブのSHAMEFULの歌詞の話になった。というか、そいう歌詞のような内容の話をしていた。

 

電気グルーヴ ニューシングル『SHAMEFUL』フルPV〜[HD] ニコニコビューア」

http://nicoviewer.net/sm17580124

 

”経験と言えるものは恥さらし”

”目に見えるだけで目にみえない”

”目に見えるだけど見えてこない”

 

つまり、なんといえばいいのだろう。この世で経験を積んだ、と言えることは恥ずかしいことでもある(そういえば知恵の実を食べて賢くなったアダムとエヴァも、裸であるのが急に恥ずかしくなった)。

 

なぜなら経験とは、自分が認識した範囲内でのことだけだから。つまりどうしても一面的になっていく。経験すればするほど自我は強力になっていくのと同時に凝り固まっていくのではないか。それを経験したと偉そうに言うのはまるで恥さらし。みたいな話。

 

僕は不登校になってからその後、ひきこもり生活を中心に送ってきたので、自我が未だにぷよぷよだ。これを固めていくことが成長なら別にいまさら成長なんかしたくないとも思ってしまう(すでに恥ずかしいのに、恥を上塗りしろだなんてあんまりです。どうかお許しください)。

 

三大欲求はあっても、結婚願望も自分の子が欲しいとも思わない。出来れば、ただ平和に食べて寝てネコと遊んで。たまにオナニーでもして暮らしていればいい。と思うと同時にやはりそれでも、まだ成長したいとも願い、本を読んだりマントラを唱えたりするのだ。なぜだろう・・・。

 

自我の成長を諦めきれていない。という面ももちろんあるだろう(できれば彼女欲しい。もちろん贅沢は言わない!綾瀬はるか演じる八重ちゃんで良いです)。

 

しかし15年、僕も甘んじてひきこもっていたわけではなく、なんとか抜けだそうと現実に生きていこうと自分なりにもがいた。結果、ことごとく失敗し未だに自我がぷよぷよなわけですが。

 

最近は「ならぬことはならぬ」(違)ということで、僕が働くことはままならぬということで、ほとんど放棄してる。にもかかわらず、成長したいという気持ちがあるのだ。これは一体?(これは一体、これは一体なんなんだー!?)

 

生涯学習という言葉がある。もし学習することが現実的利益のためなら、仕事をする必要がなくなった人は学習などしないだろう。もちろん実際しないでボケていく人も多いわけだけど(自慢じゃないが僕はいち早く、同世代に先駆けてボケはじめている)。

 

けど、生涯学習と謳われ。放送大学という自宅でテレビをつければ無料で大学レベルの教養が学べる現在。成長。結婚。育児。が終わってから(しながら)でもまだ学ぼうとしている人も多いのだ(ちなみに僕は昔放送大学に入学し0単位取得した)。

 

彼らは現実利益にあまりならないだろう学問、たとえば「地球とその歴史」「宇宙とその歴史」「数学の歴史」「人生の哲学」「仏教思想」(これは以前僕が買った放送大学の教材のタイトル一部)などを一体なぜ学ぼうと思うのか?純粋に学ぶのが楽しいから?

 

もしそうなら純粋に学ぶのが楽しいとはどういうことだろう?

 

それは今まで生きていくために身につけた凝り固まった自我(常識)を、全然違った分野を学ぶことで、壊す楽しみではないか。いや、それとも、今まで身につけた知識の上にさらに別の知識を学びつなげる楽しみだろうか。

 

しかし世界は広大で、知れば知るほど知らないことが増えるだけとも言える。だから死ぬまで楽しく学ぶことができるとも言える。

 

論点がずれまくってループしたきた。そろそろ結論に入ろう(もう誰も読んでいなそうだけど、ようやく結論はいりましたー)。

 

成長の種類は2種類ある。それは自我を一面的に固定化していく方向。と今まで固定化してきた自我をあえて崩す方向だ。

 

そして僕の自我も現実的に対応する自我ではないが、長年生きてひきこもりという生活を経験してきた分、固定化が進んでいる。これは崩していきたい、そしてさらにまた新たな一面を加えていきたいという成長に対する欲求があるのだ(散々書いた結果、答えがコレだよ)。