トリートReトリート

世界全体とわたくしが同時に幸福でありますように。ひきこもり修養所。

Newひきこもり村。を作るということは何を作ることなのか

Newひきこもり村。を作るということは何を作ることなのか?

Newひきこもり村。は果たしてゲームなのか。それともコミュニティなのか。

キャッチコピーに「千年つづくゲーム的コミュニティ」と表現したけれど、よくよく考えてみれば僕はゲームを作りたいのであって、ひきこもる人のコミュニティを作りたいわけではないのかもしれない。

 

僕は今のひきこもり生活に満足している。働けてないとはいえ、リアルで自助会にも参加しているし、たまにあって深い話ができる友達もいる。ネットにもスカイプで楽しく話せる友達がいる。なので言ってしまえば、僕個人はひきこもる人の新しいコミュニティをたいして必要としていない。

 

そもそもNewひきこもり村。という名称からしてコミュニティサイトとして矛盾に満ちている。ひきこもる人の定義が、家族以外の人と半年以上まったく接していない人というものならば、ひきこもり村でちょっとでも交流したとたん、厳密にいえばひきこもる人ではなくなってしまう。ひきこもり村。に参加すればするほど、ひきこもり像とはかけ離れていってしまうのである。

 

以前の僕はそのことを少し気に病んだりもした。僕はひきこもる人たちが主役の場を作りたくてサイトを作ったのに、気づけばそういう風にみえない人たちが大分多くなってしまったと。でも、これは当たり前なのだ。交流サイトなんだから、より多く発言する人が目立つに決まっている。

 

問題は声なき声を拾うシステムがなかったことだ。だから、今度はそれを拾うシステムを作ろうと思う。

 

なんて書くとやはりゲーム要素は二次的なもので、新しいコミュニティを僕は作りたいのだろうか?自分でもよくわからなくなってくるが、しかしすでに書いたように僕自身はコミュニティをたいして必要としていないのだ。だからやはり僕自身はゲームを作りたいのだと思う。もしくは、ゲーム的コミュニティを作るというゲームをしたいのかもしれない。

Newひきこもり村。構想Ver0

Newひきこもり村。をつくろうと思っています。

Newひきこもり村。とは一体なんなのかというと、目的はいたってシンプル。ひきこもる人が穏やかに、時に激しく自分を最大限に表現できるネット上の場所であること。あるがままに自分が、そこに居ていいんだと思える場所。居るだけで幸せを感じるところ。にすることです。

 

そのためにソーシャルゲーム要素と掲示板システムを融合した場所を作ります。

なぜソーシャルゲーム要素を入れるかというと、ひきこもっている人は対人恐怖症や社会不安障害を持っているので、そういう症状がひどい状態のときでも参加しやすいようにしたり、より楽しくするためです。

 

まだ構想段階ですが、具体的には人の書き込みを読んで、救われたり幸せな気分になったらその書き込みにポイントを上げられるシステムとか。

また書き込むのにスタミナが必要で、もっと発言を読みたい人にスタミナを分けてあげることができるとか。そういう直接発言する元気はないけれど、人とゆるやかに関わっていきたいという思いを、ゲーム要素を使って実現します。

 

掲示板としては、2ちゃんねるでも使われているスレッド形式を考えています。ただ、2ちゃんねると最大の違いは、ハンドルネーム主体の掲示板ということです。旧ひきこもり村。では登録ログイン制ではなかったですが、Newひきこもり村。では登録ログイン性にして安心して書き込める環境を作ります(見るだけなら登録は必要のないようにする予定)。

ゲーム要素のメインがこの掲示板です。スレッドを立てられる本数を1人4つほどに制限することによって、それを大事に育て殿堂入り(書き込み1000オーバー)させることを目的にしたら、おもしろくなるかもしれません。

 

それから今、考えているのは、四行日記というサービスです。ひきこもっていると辛いことは、対人恐怖症のほかに、うつ状態があると思っています。

この四行日記は今日「驚いたこと」「嬉しかったこと」「悲しかったこと」「ありがたかったこと」を一日四行書くだけですが、うつ状態から抜け出す効果があるので、プロフィール機能あたりと一緒に実装して広めていきたいと思っています。

 

というわけで今のところの構想は

 

四行日記×ハンドルネーム主体の掲示板システム×ソーシャルゲーム=Newひきこもり村。

 

となります。

ただNewひきこもり村。は僕だけが作るものではありません。核となる部分は僕が深く関わり作りたいと思っていますが、他のいろいろな機能は同志たちで追加調整していける仕組みのほうを僕は作っていきたいと思っています。

 

ちなみに核となる四行日記と掲示板のあとに実現したい機能としては、

 

共同ブログ。

辞書(Wiki)。

村の学校。

村の喜捨場。

 

などがあります。それぞれ簡単に説明すると、

「共同ブログ」は有志で書くブログです。

「辞典」は村の掲示板でやりとりされたこと、起こったことなどのまとめに使います。

 

「村の学校」は、いまリアルのほうでひきこもり当事者同士が講師をやる「ひきこもり大学」という動きがあるようですが、そのネット版です。ライブ配信で放送して、おもしろかったら投げ銭をしてもらい、それを講師料にできたらと思います。

勝山実さんの「安心ひきこもりライフ」とかphaさんの「ニートの生き方」のように、ひきこもってる人やニート状態の人でも、おもしろい人は母数が増えればもっと出てくると思うので、ぜひ実現したい機能です。もし僕が講師をやるとしたら「ひきこもりの悟り方」とか「般若心経入門」とかやってみたい。まぁ話すの苦手だからアレだけど。でも、そんな人でも気軽にできるものを目指したいと思います。

 

「ムラの喜捨場」は、物が必要な人と、物を喜んで捨てたい人をマッチングする場所です。ここまでいくとよりリアルに近いので実現は難しそうですが、Newひきこもり村。の目的は、ひきこもりながらでも幸せに生きる。ことなので、ぜひ実現したい機能の一つです。日本にこの托鉢的仕組みを作れたら、とてもおもしろいことが起こると思うので。

 

というわけで、後半はすっかり夢のような話しになってしまいましたが、この話をおもしろがってくれて、また実現に向けて関わってくれる人がいたら幸いです。

映画「ハンナ・アーレント」自分の頭で考えるということ

映画「ハンナ・アーレント」を観てきた。この映画は、ユダヤ人大虐殺を指揮していたというアドルフ・アイヒマンの裁判記録を書いたことで有名な、ユダヤ人哲学者のお話。ちなみにハンナは哲学者ハイデッガーの愛弟子らしく、恋人関係にもなったことがあることで有名らしい。そのことは少し映画でも描かれていた。

 

それはそうと、ハンナの裁判記録は世界を揺るがすことになる。それは、残虐非道のモンスターと世界中で思われていたアイヒマンのことを、どこにもでいる平凡な人と評し、「悪の凡庸さ」と名づけた。

 

それに留まらず、ハンナはユダヤ人指導者の中でナチスの殺戮に手をかしたものがいたという事実を書いた。これには、ユダヤ人たちがひどく怒り狂った。ユダヤ人たちは純粋な被害者でいたかったのである。そしてアイヒマンは悪のモンスターであって絶対的に間違っていて欲しかった。

 

しかしハンナは哲学者だからそんな思考停止したような二項対立には嵌らない。嵌らないがゆえにハンナはユダヤ人でありながら、ユダヤ人をひどく傷つけてしまった。ハンナは事実を書いたまでだったのだけれども。正しいことや、真実は人を時に深く傷つける。

 

ハンナは最後まで自分の頭で考え続けた。そして得た答えを曲げなかった。たとえ、それで大事な友だちを失ってしまっても。けれども、それでも本当の友達やパートナーは残った。

 

私も自分が正しくて他はまちがってる、なんて単純に思わないように、自分の頭で考えて生きていたい。そう思った。

うつを脱出する四行日記のススメ

うつですか?!うつになったら、とにかく休む!

休めば治るさ、まよわず休めよ。ダー。

 

というわけで、うつになったら休むことが一番なわけですが、休むだけじゃなくて、もっと積極的にうつを良くするために、何かやりたい!というときに僕は「四行日記」を勧めたいと思います。

 

四行日記というものは、一日の最後に書く日記です。書く内容は

一、驚いたこと。

二、嬉しかったこと。

三、悲しかったこと。

四、ありがたかったこと。

 

この四つを書くだけです。例としてはこんな感じです。

 

(・O・)「感情を解放する空間」を構想している人がいて、おどろいた。

(^▽^)みんなとお茶できて、うれしかった。

( i_i )父がノワに指をかみつかれ怒りまかせて叩いて、かなしかった。

(^人^)父に芸工大まで車で送ってもらえて、ありがたかった。

 

一日では効果が感じられないとしても、三週間くらいやれば実感として効果感じられるようになってくると思います。お試しあれ。

「未来に幸せがある」教と「お金がなきゃ生きていけない」教

日本は一応仏教の国である。しかし人々は仏教を信じてはいない。代わりに何を信じているかというと「お金」である。

 

「お金」とは一体何であるか?

よくよくみれば、それはただの紙である。高度な印刷技術を使っているから特別な紙であるが、紙であることに変わりはない。

 

ただの紙であるのにそれに価値があるのは、みんなが価値があると信じているからである。なんでみんな信じているかというと、お金で何でも買えるからである。

 

何でも買えるから「幸せ」さえもついに買えると思い込んでしまったところに不幸がある。「本当の幸せ」はお金があるかないかとか関係ないところにある。

 

僕らは小さいころからの教育の影響で2つの強い思い込みを持っている。それが「未来に幸せがある」と「お金がなきゃ生きていけない」である。中学校では高校に入るための勉強をして、高校では大学に入るための勉強をして、大学では良い会社に入るための勉強をすることが良しとされる。

 

一体何のために?

幸せになるために。

 

一体何のために?

よい高校よい大学よい会社に入って、幸せになるために。

 

それでは、いまあなたは幸せですか?

いまのあなたは幸せですか?

 

私はいま幸せです。

高校にも大学にも会社にも入れなかったけれど

私はいま幸せです。

 

なぜなら未来に幸せを求めていないからです。今、僕は文章を書いています。それを楽しんで書いています。それだけです。それだけなんです。

 

人生はとてもシンプルです。今しかありません。未来に幸せなどないのです。僕らはよくよく気をつけないといけない。

 

「未来に幸せを求めて時間を大事にしているつもりが、今の時間を捨てていることになっていないか?」

 

そう自分に問いかけ続けないといけない。じゃなければ、いつのまにか「未来に幸せがある」と思って、人参を眼前にぶら下げられた馬のように、延々と走らされてしまう。

 

今、こうして生きている奇跡はただの確率かそれとも因果か?

昨日id:santaro_yさんとスカイプでおもしろい話をした。

それは確率と因果のはなし。

 

たとえば宝くじに当たる人がいる。人はあたりがでやすい売り場だとか、買った宝くじ券を神棚に置くとか、そういう原因になる行いによって結果として当たると考える因果律がある。

 

それとは別に宝くじのあたりが少ないとはいえ、必ず誰かには当たるのだから因果とはまったく関係なしに、当たるものがいるのだと考える確率的事象がある。

 

そして人間の意識というものは、どちらかというと因果律を重んじる。神はサイコロをふるとは考えたくないからだ。果たして神さまはサイコロをふるのか?

 

とつぜんだが僕は仏教を信じている(キリスト教も信じているので、ブッディストであり自称クリスチャンでもあるが)。だから僕は因果というものを信じている。

 

奇跡のような確率といえば、いま、こうして僕やあなたが生きていることも奇跡的な確率の上で成り立っている。だって、僕らは今こうして生きているということは、一人の先祖も欠けることなく、生命40億年の命のリレーをしてきたのだから。それは確率的に考えたらものすごくありえないことだ。

 

しかし同時に無数に生きられなかった命があるから、誰かは宝くじにあたる人がいるのと同じように、いま生きているものがいるのも当たり前ともいえる。確率的に誰かが死に絶え、誰かはかならず生き残り続けるのだ。

 

だからといって、僕はそれを単なるラッキーだと済ませたくはない。神様はサイコロをふらないと僕は思う。確率的事象はあるけれど、因果律のほうが強い。そうじゃなかったら宝くじで何度も当たる人がいるのは変だし、無数に散っていた命に失礼だと思うから。

 

ということを書いていて、いま思った。僕らは幸せであるために今を生きている。

この世で一番大切な問い。

人は悲しみを抱えている以上、人にやさしくできない。人にも自分にもやさしくできない。やさしくできなければ、人は幸せにはなれない。だから、まず何よりもやらないといけないことは、悲しむべきことをしっかりと悲しみ、悲しみを開放してあげること。

 

怒り。憎しみ。恨み。寂しさ。罪の意識。人はいろいろなネガティブな感情を抱くけれども、そのすべては悲しみを悲しみのまま感じることを禁じた結果に出てくる感情である。

 

仏教では慈悲の心を一番大切にしている。慈悲とは、楽を与える「慈」と、苦を取り除く「悲」のこと。一般的には悲しみとはありがたくないネガティブな感情という認識が広まっているけれども、本当は一番大切な感情である。

 

生きていると悲しいことはどうしても起こってくるけれども、ちゃんとその悲しみと向きあい悲しみを悲しみとして感じていれば、人は不幸にはならない。悲しみを否認して怒りや憎しみ、恨みにまで発展させてしまったとき人は不幸になる。

 

だから、もしあなたが今、悲しみ以外のネガティブな感情に囚われているのならば、こう自分に問いかけてみて欲しい。

「この感情はどんな悲しみとつながっているのか?」

 

自分の心と体に訊いてみて欲しい。ゆっくりと一人の時間をもって。記憶をたどり、悲しめなかった悲しみをしっかりと感じてあげて欲しい。それを繰り返し、抱えていた悲しみを流しきったとき、人はやさしくなれます。人にも自分にもやさしい人に。